懐かしい両親とわたしの回顧録
父の話は以前のブログで少ししていますが、その
続きを今回は綴ろうかなと思っています。
私の父はよく母に暴力を奮っていました。予科練
上がりの父は故郷の親の会社を引き継ぎ(母の話で
は20人ほど従業員がいたらしい)ましたが連鎖倒産
してしまい夜逃げのようにして関西の大学時代の
友人を頼って母と私達を連れて本土に移り住みま
した。
学生時代の友人は冷たく、使用人のように扱われ
給料もほとんど貰えなっかたようです。
そのストレスからか、よく母を殴り私達もしょっ
ちゅう殴られていました。
父は商才はありましたが、口下手でした。
母はとても賢い人でしたが真っ直ぐすぎる人なの
で嘘も言えず思いを口にしてしまい父の逆鱗に触
れてたようでした😭
それでも今思うと、子供は誰も怪我をしていなかっ
たので父なりに手加減していたのか・・・
私には思いっきりいつも叩かれてる記憶がありまし
たが・・・(´;ω;`)
そんな月日が流れ、ある時父の倉庫が火事(後日、
放火と知らされた)になっていると私の会社に両親
不在のため警察から連絡がありました。
ほぼ全焼・・・
大事な高い商品ばかり入れていた倉庫が丸焼けに。
父は遠方の仕事先から丸1日かけて母と飛んで帰
ってきました。
帰って来てからは周りの家に謝りの挨拶もせず、
只々残ってるわずかな商品を運び出していました
。
気持ちも分からなくはナイケド・・・🙄
私はおびえきって泣いている母と共に迷惑かけた
周辺の家々に菓子折りを持って謝りの挨拶をし
それから休みの度に片付けをしに倉庫に通いまし
た。
ケチな父は火災保険にも入ってなく少し類焼した
お隣の家の外壁を修繕しようと私が手配した職人
さんに材料だけ置いていけ、自分で直すと無茶苦
茶でした。
お隣はその後すぐに解体されたから良かったもの
の・・・😓
片付けしているときもプレハブの倉庫の2階の底
が抜け落ち、今にも崩れ落ちそうなのにその下の
階のあの商品を取って来いと父に言われ命がけで
何度も持ち出してました。
娘より品物が大事なんだとつくづく実感しました。
(笑)
そんなさ中、警察が放火の犯人を見つけ出してくれ
民事裁判途中75歳の父はついに心労が重なり脳梗塞
をおこし、いきなり車いす生活になりました。
言葉も話せず、半身まひ。
父の人生は一変してしまいました。
あの日夜中に母から電話がかかってきて飛んで実家
に向かうとオロオロしながら家庭の医学を持って、
ウロウロしてた母がいました。
父が酔ってるのかどうなのか分からないと・・・
家も倉庫も荷物が山積みで座るところがないほどに
していたので荷物の中に埋もれていた父は、私が近
づくと動くほうの腕で私の腕を必死でつかみ、精一
杯のうめき声を出し下向きになってた腫れている方
の顔をこちらに向けました。
私は驚きすぐ救急車を呼び10分ほどで到着しました
。
10畳近い玄関も雪の回廊のように荷物でいっぱいに
なっていたので救急隊員も60㎝ほどしかない通路か
ら担架に乗せて父を運ぶのをあきらめ最後には引き
ずって救急車に乗せていました😱
翌日、よほど慌てられてたのか救急鞄を実家に忘れ
たので取りに行きたいとのことでした( ´艸`)
父は最初は自分に起こった事の受け入れが出来ずリ
ハビリ中の病院で車いすに乗ったまま残った左手で
私や母をよく突き飛ばしていました。
けど親子なんですね・・・父の深い悲しみが伝わって
怒ることも出来ませんでした。
そんな中また警察から連絡があって父が住宅の屋根
をトラックで倒れる何日か前の日に当て逃げしたと
の事。
病院に警官が来て事情聴取をしようとしたけど父に
聞いても首をかしげるだけで諦めて帰られました。
その時の担当の方はとても優しかったのを覚えてい
ます。
その後聞いていた住所に菓子折りを持って謝りに行
った時、❝お父さん、体調悪くて気が付かなかった
のね❞言っていただき保険で物損の手続きのみで許
して頂きました😓
倒れてから半年近く経ったとき父も色んなこと諦め
たのか大人しくなっていき、父と母は初めて本当に
夫婦らしい生活を送るようになったのです・・・
またこの続きを書きますね